2019.04.26
初代『日本の花』~『令和』の典拠・万葉集
あれもこれも担当の千葉です。



 

2年前から三嶋大社で開催される古典講座を受講しています。『小倉百人一首』

『古今和歌集』と来て今年度は『万葉集』です。先ほど発表された新元号の

『令和』の典拠が万葉集ということで一躍脚光を浴びていますが、実は講座の

内容が万葉集と決まり、申し込みをしたのは随分と前だったので、新元号の発

表を聞いて、きっと典拠である『梅花の宴』の講義も盛り込まれるだろうな、

と期待していました。そして期待通り、第一回の講義が、万葉集・巻五、

『梅花の宴』でした!以下はその受け売りです。

 



 

その後長い間の、日本人の自然観や短歌の様式を確立したのは、平安時代に

国風文化初期の金字塔となった古今和歌集だと言われています。例えば和歌

で『花』と言えば『桜』を指すようになったのは平安時代であり、奈良時代

までの歌を集めた万葉集では、桜を詠んだ歌が40種に対して梅を詠んだ歌

は120首と圧倒的で、『花』と言えば中国由来の『梅』のことであった、

と言うことは以前からも聞いていました。ところが、話はそう簡単なことで

はありませんでした。

 

万葉集は、聖徳太子が摂政を務められた推古天皇の次の御代、即ち舒明天皇

(629年)から淳仁天皇(759年)の御代、氏族政治から律令政治が確

立された時代のおよそ130年の間に詠まれた歌を集めたもの。飛鳥・藤原

京時代から平城京奈良時代に詠まれた歌たちです。まだひらがなができてお

らず、漢字をあてた万葉仮名で書かれています。『梅花の宴』の歌は、万葉集

でも後期、平城京遷都後の730年に詠まれた歌38首からなります。長官

として大宰府に赴任していた大伴旅人(おおとものたびと)が、筑前守であっ

た山上憶良(やまのうえのおくら)など部下・役人を屋敷に集めて宴を開き、

庭の梅の花を題材に詠んだものです。

 

筑前歌壇の中心であった大伴旅人と山上憶良は、文字から文学から律令まで

全て大陸中国をお手本にしていた中で、超巨大先進国家である『唐』に対し

て『日本』という国家を強く意識し、中国の漢詩の様式である『題詞』や

『序文』を和歌にも導入しました(これが平安時代には『詞書(ことばがき)』

となる)。また、その序文にもあるように、高名な漢詩の『梅花洛(ばいか

らく)』をはっきりと意識して『梅花の宴』を催しています。日本にも中国

に劣らない文化があるのだと訴えているのです。712年の古事記編纂、

713年の風土記編纂開始、720年の日本書紀編纂と、701年の大宝律令

の制定後、国力が高まるにつれて、『日本』という国家意識の高まりが大きな

時代の流れを形成していたようです。

 



そこで先の話に戻ります。万葉集では圧倒的に多い梅の花を詠んだ歌ですが、

なんと、730年の『梅花の宴』の前にはなく、120首は全てこの『梅花の

宴』以降に詠まれたものだそうです。その意味では、中国由来の花ではありま

すが、『梅』は初代『日本の花』とも言えるだろうと思いました。

 

因みに、中国の古典で言うところの『令月』は二月如月を指すそうですが、

古今集では『よき月』の意味で、正月、二月ともに『令月』と呼ぶそうです。

実際に、この万葉集の『梅花の宴』も天平二年正月十三日に催されており、

『初春令月 気淑風和』と書かれています。

 

なお、

わが園に梅の花散る ひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも

 

という宴の主人・大伴旅人の歌で判るように、万葉の時代の『梅』とは、

『白梅』であったそうです。