2018.01.22
シリーズ・徒然読書録~磯田道史著『無私の日本人』
あれもこれも担当の千葉です。
読書は好きで、常時本を持ち歩く癖が付いてしまいましたが、読み方は極めて
大雑把、何かしら記憶のどこか、心の片隅にでも蓄積されていれば良いという
思いで雑然と読み流しています。暫くするとその内容どころか読んだことさえ
忘れてしまうことも。その意味で、読者の皆様には退屈でご迷惑かとも恐縮し
つつ、ブログに読書録なるものを記してみるのは自分にとって有益かも知れない
と思い、始めてみました。皆様のご寛恕を請うところです。
徒然なるままに読み散らす本の中から今回取り上げるのは、磯田道史著『無私の
日本人』(文芸春秋刊)。ある会合でご一緒した御恩のある方から、面白いから
読んでみなさい、と貸して戴きました。
著者の磯田氏は、史学の専攻で、静岡文化芸術大学の准教授をされていますが、
むしろ映画化もされた『武士の家計簿』の著者という方が判り易いでしょうか。
江戸時代の社会・文化・思想、人々の生活の在り様を語るのに、小説の手法を
用いているのは『武士の家計簿』と同じです。小説は本来の史学的主張を説く
ための手段であるのですが、その小説の筆力が立派で読み物としても十分楽し
めました。(、や。の句読点がやたらと多いことと、ひらがなが多いのが難点で
はありますが。)
出だしはこうです。『みちのくの春はおそいが、いったん野に若草が萌え、桜
の木に花芽がつくと、一気に、桃の花びらがほころび、山が笑う。堰をきった
ように、清らかな水がほとばしり出て、田あぜの用水を滔々と流れ、村里をう
るおす。うららか、といえば、これほど、うららかな日もあるまい。』
こんな小説風の文章の中に、当時の社会を現す表現が鏤められています。
『江戸時代、とくにその後期は、庶民の輝いた時代である。江戸期の庶民は、
親切、やさしさ、ということでは、この地球上のあらゆる文明が経験したこと
がないほどの美しさをみせた。倫理道徳において、一般人が、これほどまでに、
毅然としていた時代もめずらしい。』
『江戸時代の家意識とは、家の永続、子々孫々の繁栄こそ最高の価値と考える
一種の宗教である。この宗教は「仏」と称して「仏」ではなく祖先をまつる
先祖教であり、同時に、子孫教でもあった。・・・室町時代までは、家の墓所
を持つことはおろか、墓に個人の名を刻むことさえ珍しかったが、江戸時代
になると、「墓を守る子孫」の護持が絶対の目的となった。』
今回著者は江戸中期から末期に生きた3人を取り上げ紹介しています。
重い宿場の負担により人が減り更に負担が重くなるという負のスパイラルに
苦しむ仙台藩吉岡宿で、数人の商人が身代を賭けて大金を集めて藩に貸し、
その利息を宿場に還元する仕組みを作り宿場の離散を防いだ、穀田屋十三郎
(こくたやじゅうざぶろう)。
ほとんど著作を残さず、無名ではあるが、荻生徂徠など及びもつかない、
屈指の儒者であり詩人であった中根東里(なかねとうり)。
連月焼の名で有名となった蓮を模った急須で糊口をしのぎ、富岡鉄斎の
育ての親で、美貌故に波乱万丈の人生を送った無私無欲の歌人、大田垣
連月(おおたがきれんげつ)。
著者がどうしてこの三人を取り上げたのかが、あとがきの中に書かれて
います。少し長くなりますが、その抜粋を記して終わりにします。ここに
著者の志(こころざし)が見て取れます。
『時折、したり顔に、「あの人は清濁あわせ呑むところがあって、人物が
大きかった」などという人がいる。それは、はっきりまちがっていると、
わたしは思う。少なくとも子どもには、ちがうと教えたい。ほんとうに
大きな人間というのは、世間的に偉くならずとも金を儲けずとも、ほんの
少しでもいい、濁ったものを清らかなほうにかえる力を宿らせた人である。
この国の歴史のなかで、わたしは、そういう大きな人間を確かに目撃した。
その確信をもって、わたしは、この本を書いた。』
『これからの日本は物の豊かさにおいて、まわりの国々に追い越されていく
かもしれない。だからこそ、この話は伝えておきたいと思った。・・・大陸
よりも貧しい日本が、室町時代以来、五百年ぶりに再び現れる。そのとき、
わたくしたちは、どのようなことどもを子や孫に語り、教えればよいのか。
このときこそ、哲学的なことどもを、子どもにきちんと教えなくてはいけ
ない。いま東アジアを席巻しているものは、自他を峻別し、他人と競争する
社会経済のあり方である。・・・この国には、それとはもっとちがった深い
哲学がある。しかも、無名のふつうの江戸人に、その哲学が宿っていた。
それがこの国に数々の奇跡をおこした。わたしはこのことを誇りに思って
いる。この国にとってこわいのは、隣より貧しくなることではない。ほん
とうにこわいのは、本来、日本人がもっているこのきちんとした確信が失わ
れることである。ここは自分の心に正直に書きたいものを書こうと思い、
わたしは筆を走らせた。地球上のどこよりも、落とした財布がきちんと
戻ってくるこの国。ほんの小さなことのように思えるが、こういうことは
GDPの競争よりも、なによりも大切なことではないかと思う。』
良い本に出会えました。