2013.04.08
歌舞伎座の柿(こけら)落とし②~建築家、隈研吾氏のデザイン観
あれもこれも担当の千葉です。



4月2日に新築歌舞伎座の柿(こけら)落とし興行が始まりました。125年の歌舞伎

座の歴史は、日本の現代歌舞伎の発展の歴史と重なり、多くの一座・門閥の切磋

琢磨と合従連衡の歴史でもあり、様式・伝統の保守と革新の歴史でもあるようです。



前号でも書きましたが、歌舞伎座の建物は、関東大震災、東京大空襲、東日本大

震災という大きな災害・被害の度に不死鳥のように甦ってきました。今回の5代目歌

舞伎座は、隈研吾氏の設計、清水建設の施工でした(残念ながら当社の設計施工

ではありません・・・あたり前か・・・笑)。

 

4月4日付けの日経新聞朝刊のコラム『春秋』にも、ちょうど隈研吾氏のことが載っ

ていました。『隈研吾さんが「いばった建築は嫌い」と話していた。建築は自己主張

せずに、内にある空間と人間を黙って包み込む。歌舞伎という芸が輝いてこそ、そ

の容器である建築物の存在感も高まるに違いない。』という内容です。



建築家、隈研吾氏は、昭和52年に東京大学工学部建築学科を卒業、隈研吾建築

都市設計事務所( http://kkaa.co.jp/ )を設立・運営をする傍ら、慶應義塾大学や米

国イリノイ大学で教鞭をとられた後、現在は事務所の他に東京大学大学院の教授

を兼任されています。日本建築学会賞、毎日芸術賞、芸術選奨など、数々の受賞

歴をお持ちです。



先日、『震災とデザイン』と題する隈氏の講演会があり、学士会館に出掛けて聴講

させて戴きました。



概要を纏めてみます。

 

《建築のデザインの潮流の変化には二つの見方がある。一つは工学的な見方で、

工法、技術、素材の進歩による変化。これは分かり易いですね。もう一つは生物的

な見方。実は大災害毎に生まれ変わって来た歌舞伎座同様に、近・現代の建築デ

ザインの潮流の変化は大災害によってもたらされて来た。》

 

《1755年のリスボン大地震。世界人口が現在の1/10の時代に、5~6万人の死

者を出した大災害だった。これによって、神に守って貰うのではなく、自らを守れる

ような建築、合理的で科学に基づいた形、デザインが主流となり、これが20世紀

の建築の先駆けとなったル・コルビジェに繋がって行く。リスボン大地震後の合理

的・科学的思考は、啓蒙主義に発展し、フランス革命にも繋がって行った。》

 

《1871年のシカゴ大火。それまで木造とレンガの街シカゴが、コンクリートと鉄の

建築に変わる。これが契機となって建築デザインの主導的立場が欧州から米国

に移り、20世紀のニューヨークなどの超高層ビルへと繋がって行く。

1923年、10万人の死者を出した関東大震災。東京が都市の不燃化、災害に強

い都市を目指し始め、コンクリート造、鉄骨造が急増した。》

 

《では、今回の東日本大震災で建築のデザインはどのように変わるのか?まだ2年

しか経っていないので、形になって現れて来るのにはまだまだ時間がかかるが、

『自然に対し従順な建築』、『(自然に)負ける建築』が増えて行くのではないかと

思っている。今回の災害で、自然に立ち向かうという精神では立ち行かぬことに気

付いた。自然をどのようにリスペクト(尊敬)し、対応するのか。自然の理論に従う建

築デザインが増えるのではないか。》

 

《元来日本にはこのような発想があった。茶の湯はその代表であろうし、広重美術館

の設計をさせて貰ったが、広重の絵は人ではなく、自然が主役。自然との調和を重

んじた建築家、フランク・ロイド・ライトも広重の熱烈なファンであった。》

 

《20世紀の建築が自然と対峙し、破壊するものであったのに対し、21世紀の建築

は自然を守るものに変わるべきである。》

 

とても判り易く、素敵な講演でした。

隈氏の作品を見ていくと、震災によってではなく、どの時点か途中から随分と指向

が変わって来て現在のお考えになって来たような気がします。

 

東京でも、隈氏の建物が見られますので、いくつかご紹介して終わりにします。



台東区の浅草文化観光センター。いつでも入れるので、スカイツリー見物の折に

は寄ってみたいものです。