2014.04.07
シリーズ・徒然読書録~『他人を許せないサル』
あれもこれも担当の千葉です。
読書は好きで、常時本を持ち歩く癖が付いてしまいましたが、読み方は極めて大雑把、
何かしらからだのどこかに蓄積されていれば良いという思いで、雑然と読み流します。
その意味で、読者の皆様には退屈でご迷惑かとも恐縮しつつ、ブログに読書録なるも
のを記して見るのは自分にとって有益かも知れないと思い、始めて見ました。皆様の
ご寛恕を請うところです。
徒然なるままに読み散らす本の中から今回ご紹介するのは、正高信男著『他人を
許せないサル~IT世間につながれた現代人~』(講談社ブルーバックス)。
以前にご紹介した香山リカ著『悪いのは私じゃない症候群』(ベスト新書)
http://www.szki.co.jp/blog/archives/2151
や片田珠美著『正義という名の凶器』(ベスト新書)
http://www.szki.co.jp/blog/archives/2168
とテーマが重なる本です。
早速『はじめに』から著者の言葉を引用してみます。
「二十一世紀に入った日本社会の時流の特徴を、ひとことで表現するならば
『ひとり勝ち』に見えるかのような時代と言えるのではないだろうか。」
「世間で評判になると自分も手にとる、という風潮がとても強い。ただし、すぐに忘れる。」
「百家争鳴する世間の注目が常時限られた一点に集中するものの、長続きせず、
めまぐるしく移動するようになった。」
「時を同じくして、IT化の中で『ひとり勝ち』したかのように見えるのがケータイである。・・・
ケータイに群がり日本人のサル化現象が目立つようになってきた。・・・日本人の心は
ケータイに鷲づかみにされてしまったかのようだ。」
「どう考えても何かがおかしい。一体どうなっているんだろうと考えたあげくにできたのが
本書である。」
著者はまず、日本人のケータイとの関係性について、世界で最もモバイル・
コミュニケーションの発達したフィンランドを始め、欧米との差異を取り上げている。
ケータイを使う時間は圧倒的に日本人が多く、メールのやり取りに至っては、
欧米人がひと月に20~30通であるのに対して日本人は一日で数十通というのも
珍しくない。それだけ日本ではケータイに依存している現代人が増えているという。
フィンランドとは反対に、日本ではケータイがライフスタイルを大きく変える影響力を
持っている。
その差の原因を著者は、日本が農耕文化、即ちムラ文化に源を発する『世間』文化
に浸かっており、自分と世間との境界があいまいな(言い換えれば自我が薄い)
のに対し、欧米は神と各個人の契約関係が基礎にあり、自我意識が強い点に
求めている。
世間体を気にし、世間付き合いを殊更大切にする。お中元やお歳暮は戴いたら返し、
皆と異ならぬよう、目立たぬよう、決して村八分(同調しない者を排斥することによって
結束力が高まる)にならないように細心の注意を払う。これがケータイと結びついて、
メールを貰ったら送り返し遣り取りは際限なく続き、メーリング・リストの村八分に
ならぬよう細心の注意を払う。どこでも見られている神様がいないため、匿名性は、
誰にも見られていないことと同じとなり、攻撃性を強め、中傷非難メールの花盛りを
もたらす。
著者が挙げている例を一つ。
「大学の授業で学生に匿名で感想文を書かせると、平気で無茶苦茶なことを書いて
くるという話をよく耳にする。ところが、実名となると、途端にその現象はウソのように
消えると。その心のあり方は欧米人にはない。・・・例えば、大学のレポートの課題で、
もし他の学生と同じ文章、また不正な引用をしようものなら、退学は免れない。
自分の言動に対する責任は、子どものころから培われている。だから、匿名で
他人のブログやサイトに書き込みをする行為は倫理に反するとみなされる。」
成程なるほどと得心行く分析が繰り広げられています。ケータイの出現が新たな
『ケータイ世間』を産み出したという訳です。かつての世間が『地縁世間』であったと
すると、現代の『ケータイ世間』は、『電脳縁世間』だと著者は評しています。
ひとつ腑に落ちない分析がありました。
「ケータイに依存して仲間と群れ、電車の中で鏡を取り出して化粧をしたり、
菓子パンなどをパクついて(先日は、何と一人でカップラーメンを食べている
女子高校生を目撃した)平気でいられる若者と、外界との交渉を絶った
ひきこもり現象とは、意外に共通性があるのではと筆者には映る。結局のところ
両者とも、『家の中』=私的空間から、『家の外』=公共の場に出ることを拒否して
いるのではないか。だから、前者の場合は、あたかも家にいる感覚で、地べたでも
どこでもくつろいでしまう。電車の中で隣の人に寄りかかりながら居眠りしてしまうのも、
まったく無防備になれる家の中の延長なのだろう。」
私には、電車の中が『家の中』の感覚だからではなく、悲しいことに、電車の中が
彼らにとっては家の外の『世間』の更に外側だからではないかと思えてなりません。
彼らにとっての『世間』は仲間であり気になる相手ですが、その外側の社会(電車の中)
は気にする必要のない相手としか映っていないのではないでしょうか。傍若無人
の文字そのもので、傍らに(自分にとって意味のある)人の無きが若く思っている
のではないかと恐れます。自分にとって意味のある『世間』や『社会』が極めて狭く、
その中だけで暮らして行けると勘違いしてはいないか。その方が社会としたら重症だと
感じます。もしかするとそれは杞憂で、単純に親や大人が『はしたない』、『他人に迷惑を
掛ける』からしてはいけないと教えていないだけで、教えられれば変わるのかもしれません。
そうであって欲しいと願います。
エピローグで著者は、以下のように対策を提起していますが、極めて効果的で充分
なものとは感じられません。それだけ難しい問題なのですね。
「どれほど情報化が発達しようとも、日本人は世間に住むことから抜け出せないのかも
しれない。それならば、グローバリゼーションというような幻想を捨て、古風である
けれども良い意味での世間付き合いを営むために情報メディアを積極的に活用する術を
考えなくてはならない。同時に『世間付き合いの悪弊』を取り除く努力も不可欠だろう。
当面のところ、急務の課題としては、匿名のままでアクセスすることが不可能なシステム
の構築があげられるだろう。さらにネットでメッセージを送る際のマナーとしての修辞法
の確立が最火急の課題の少なくとも一つであることには疑問の余地がないように思える
のである。」
『悪いのは私じゃない症候群』、『正義という名の凶器』そして『他人を許せないサル』、
ネーミングが3作ともに優れていますが、ネーミングだけで言えば『悪いのは・・・』が
秀逸でしょうか。面白さから言うと、欧米との比較から日本古来の『世間』文化に結び
つけて分析した『他人を・・・』が抜きん出ていると思いますし、この風潮の行き着く先の
恐ろしさへの警鐘としては『正義と・・・』が良かったと感じます。ただ3作に共通して
残念なのは、有効な対策・解決策を殆ど提起できていないところです。それだけ困難な
問題なのでしょう。
あまりしつこいと飽きられてしまいそうなのでこのテーマに関しては当面この3部作で
一段落終了としますが、3作ともに有効な対策・解決策を提案できていないように、
『ネット社会と結びついた昨今の日本の他責的風潮、付和雷同的風潮の蔓延』というテ
ーマは、今後も注目を集め続け、これを扱う本も出版され続けるでしょうから、またいつ
かこの手の本のご紹介をすることになるかも知れませんね。