2020.10.16
シリーズ・徒然読書録~山根京子著『わさびの日本史』
あれもこれも担当の千葉です。

 

 

読書は好きで、常時本を持ち歩く癖が付いてしまいましたが、読み方は極めて大雑把、何かしら記憶のどこか、心の片隅にでも蓄積されていれば良いという思いで雑然と読み流しています。暫くするとその内容どころか読んだことさえ忘れてしまうことも。その意味で、読者の皆様には退屈でご迷惑かとも恐縮しつつ、ブログに読書録なるものを記してみるのは自分にとって有益であるかも知れないと思い、始めてみました。皆様のご寛恕を請うところです。

 

徒然なるままに読み散らす本の中から今回取り上げるのは、山根京子著『わさびの日本史』(文一総合出版)です。わさびの原種が、人間によって特別な植物として『栽培ワサビ』となる経緯を、日本全国(時に中国本土の山奥まで)300箇所を訪ね歩き、DNA分析と史料に刻まれた記録を検証することで解明しようと試みた、簡易でありながらかなりの力作です。図書館の新刊本コーナーで見掛け、静岡県伊豆の住人としては見過ごす訳にいかず手に取ってみました。

 



 

本書の内容を掻い摘んでみましょう。

 

アブラナ科ワサビ族は約30種、大半が中国に自生しています。DNA分析によれば、ワサビは人類が日本列島に住みつく以前に渡来して、氷河期を生き延びたもの。凡そ100万年前、複数のワサビが大陸のワサビ族から分岐して渡来したと考えられます。渡来したワサビは日本海側を中心に分布し、多雪地帯に適応して進化したと考えられています。

中国雲南省に自生するシュンサイと呼ばれるワサビは、日本のワサビと見た目はソックリですが、全く辛みがなく、ゲノム分析でも異種と判明。日本のワサビだけが辛いとのこと。

からし(薩摩、三重)、しゃんしょのき(島根)、せんの(秋田)、ひの(青森、秋田)ふしべ(秋田)、ふすべ(秋田)、わさびな(京都)。ワサビの呼び名の方言は極端に少ない。これは山椒や生姜にも共通し、香辛料は用途が限定され多様性が生まれ難いからではないか。

ワサビの最も古い記述は飛鳥時代(660年前後、天武天皇前後)の木簡や大宝律令(701年)、播磨の国風土記(710年頃)に、恐らく薬草として『委佐俾』『薑(はじかみ)』の名で登場。本草和名(917年)で初めて『山葵』の字が登場します。産地(自生採取)として、若狭、越前、丹後、但馬、因幡、飛騨(延喜式927年)が記されています。

食用(香辛料)としての初めての記述は倭名類聚集(10,11世紀、平安中期)。

しかし古事記(712年)、日本書紀(720年)、万葉集(790年頃)から古今和歌集(910年頃)までの多くの史料には記述がありません。これは、恐らく自生している山麓の住民にしか馴染みのないものであったからだと考えられます。

この後には、厨事類記(平安末期~鎌倉末期)に料理での使用法として初めての記述(汁ものの実としてが主流)が、鈴鹿家記(14世紀)に初めて刺身と並んでのワサビの記述、四条流庖丁書(15世紀)に『わさび酢』の記述があります。日本食の料理法は江戸時代に急速に変化しますが、食材は殆どが室町時代に出揃っていることを考えると、鎌倉時代後期から南北朝時代に、刺身とワサビの食文化が始まったと考えられます。

しかし、『刺身とわさび醤油』の浸透は、江戸時代中期(19世紀初頭)の醤油の低価格化による庶民への浸透まで待たねばなりませんでした。それまでは、料理物語(1643年)、料理献立集(1672年)などによれば、香辛料としては山椒、生姜が主流で、刺身にはワサビよりもショウガが一般的。また、ワサビは『わさび酢』として、生魚よりも、貝類や鳥類に(生魚も赤身ではなく白身魚に)合わせて用いられていました。ようやく料理分類伊呂波包丁(1733年)になると、すりおろしワサビが一般化し、香辛料の中でもワサビが躍進をすることになります。そして19世紀初頭、醤油の低価格化による庶民への浸透、それまで下魚とされてきたマグロの消費拡大、伊豆でのワサビ栽培による供給増加が重なり合い、江戸でのワサビ醤油文化が定着することになったのです。

 



(江川坦庵が書いたといわれる山葵の絵、『山葵からくばあやまるに』)

 

それではワサビはいつどこで人の手によって『栽培』されるようになったのか。そしてなぜ伊豆半島で江戸の消費を支えるような大規模な『栽培』がなされるようになったのか。

著者は、山葵栽培の起源地としては静岡県中部の有東木が有力としています。DNA分析では、有東木の栽培種『だるま系』の野生種祖先種は山梨県、群馬県、長野県にまで絞り込めました。有東木の集落は武田家の一族が入植していたこと、静岡県側には野生種がないことから、恐らく山梨県側から自生種が持ち込まれたのではないかと推測しています。

そして徳川家康との運命的な出会い。大御所として駿府入城後に有東木の山葵を知った家康が、家紋の葵と葉がよく似た山葵を珍重、有東木から門外不出としたとされています。朝鮮通信使の駿府饗応献立にワサビの記録があり、その接待人数からしても自生ではなく栽培されていたことが裏付けられるといいます。そして家康の死後には前述の如く、史料にワサビの記述が頻繁に登場することになります。

そして伊豆湯ヶ島の板垣勘四郎が1744年に有東木に派遣され、しいたけ栽培を教え、その代わりにワサビ栽培を教わり、伊豆に持ち帰ったと言われています。1801年には幕府の許可も下りてはいますが、当初家康公によって門外不出とされた有東木のワサビが持ち出せたのには、有東木の娘との恋物語など諸説がありますが、著者は有東木の望月家も湯ヶ島の板垣家も共に旧武田家の流れであることにヒントがあると見ています。1805年には既に175軒の栽培農家があったとの記述もあり、江戸での一大消費ブームを支えることとなります。

伊豆にはワサビ栽培に適した要素が沢山あります。日本有数の降水量を誇る天城の豊富な水、その水を涵養する地質環境(水はけのよい噴火堆積物)、天領のため留木制度(許可ない伐採を禁止)による保護があったと著者は記しています。

筏場のわさび田で山葵の栽培をしていた亡き友人に聞いた話ですが、山葵は直射日光に弱く、南斜面は向いていない。狩野川が太平洋側では唯一の北に流れる一級河川であるように、天城は北斜面でかつ豊富な流水に恵まれているのでワサビ栽培には適しているのだと。山葵狩りをしながら夭折した友人に教えてもらった懐かしい思い出です。

中伊豆大見にも享保年間(1716~1736年)にわさび田流出、宝暦年間(1751~1763年)には特産品としての出荷の記録があります(地蔵堂最寄り)。これに関して著者は、DNA的には有東木のだるま系であり、大規模な栽培としては、大見口での栽培は狩野口での栽培より遅れる、と書いていますが、ここはいまいちスッキリしていません。が、どちらにせよ背中合わせの地域で、伊豆市であることに変わりはありませんね。

 

江戸など関東では一世を風靡したワサビ醤油文化ですが、更に、関東大震災と戦後(1947年)の飲食営業緊急措置令によって握りずしが全国に広まったのに合わせてワサビも広まることとなります。そして全国津々浦々にワサビが定着するのにとても大きな役割を果たしたのが、粉わさび(1939年代~)と練りわさび(1970年代~)の開発でした。大規模な栽培といっても、もともと栽培が難しく、収穫までに年数が掛かり、温度乾燥に弱く、揮発性の辛味のためにその場でその都度すり下ろす必要がある生わさびでは賄えない量が供給できることとなった訳です。

日本で現在栽培されているワサビの品種は主に3つ。だるま系、島根3号系、真妻系(私が伊豆産でよく手にするのはこの真妻種です)。ところが北陸、白山麓のワサビはどれにも当てはまらないもので、江戸時代には塗り薬として少量栽培されていました。もちワサビと言われるように、すり下ろすと粘りが強く、香りが突出して強いものもあるそうです。

韓国の香辛料はトウガラシ、なぜ日本はワサビなのか。著者の分析はこうです。韓国が肉食文化で日本が魚食文化だからではないか。日本で肉の消費量が初めて上回ったのは2006年で、それまで長い間水産物の消費量の方が多かった。また、川魚のように香辛料が臭みを消すために使われることもあるが、日本の香辛料は臭みを消すよりも、食欲を刺激し増進する役割が多く、素材の味を活かす調理法が多いからだと。

 

2013年に日本食が世界文化遺産に、2018年には静岡水わさびの伝統栽培が世界農業遺産に認定されており、世界に対して改めてワサビが発信されました。しかし最後に著者はワサビの未来について懸念を表しています。

自生種は鹿などの食害や開発などで減る一方です。栽培種についても、日本人の肉食化傾向や若い人たちのワサビ体験の減少傾向が挙げられています。今は握り寿司も回転ずし。回転ずしでは子供向けに『サビ抜き』になっています。

ワサビの嗜好は、美味しいと感じた体験によってもたらされます。ぜひワサビの食体験を増やしましょう!