2021.01.25

金冠山・達磨山ハイキング

 

花崎です

 

 

金冠山と達磨山をハイキングして来ました。

 



 

だるま山高原レストハウスからスタート

 



 

金冠山の山頂から沼津方面を臨みます。

(淡島が見えます)

 



 

達磨山を目指します。

 



 

小達磨山を通り、

 



 

途中で見える戸田の街並み

 



 

スカイライン越しの富士山

(きれいです!)

 



 

長い階段を登り切り、達磨山の山頂に到着。

 



 

山頂から見える景色

 



 

 



 

お昼ご飯はチキンカレー

(美味しかった!)

 



 

ゴール目前で鹿さんこんにちは!

 

今回も楽しいハイキングでした。

 
2021.01.22

シリーズ・徒然読書録〜宇佐見りん著『かか』

あれもこれも担当の千葉です。

 

読書は好きで、常時本を持ち歩く癖が付いてしまいましたが、読み方は極めて大雑把、何かしら記憶のどこか、心の片隅にでも蓄積されていれば良いという思いで雑然と読み流しています。暫くするとその内容どころか読んだことさえ忘れてしまうことも。その意味で、読者の皆様には退屈でご迷惑かとも恐縮しつつ、ブログに読書録なるものを記してみるのは自分にとって有益かも知れないと思い、始めてみました。皆様のご寛恕を請うところです。

 

徒然なるままに読み散らす本の中から今回取り上げるのは、宇佐見りん著『かか』(河出書房新社刊)です。沼津生まれ(小さい頃に神奈川県に引っ越されたそうです)の期待の新星登場!との声を聞いて図書館で借り受けました。ふた月ほどの予約待ちを経てちょうど読み終わった時に、2作目の『推し、燃ゆ』が今年前半の芥川賞受賞というニュースが舞い込み、驚きました。

 



 

著者のデビュー作である本作は、三島由紀夫賞、文藝賞をダブル受賞、続く2作目で芥川賞受賞、しかも若干21歳というのは何とも素晴らしく、将来が楽しみです。

 

さてデビュー作『かか』。裏表紙にはこのように書かれています。

『19歳の浪人生うーちゃんは、大好きな母親=かかのことで切実に悩んでいる。かかは離婚を機に徐々に心を病み、酒を飲んじゃ暴れることを繰り返すようになった。鍵をかけた小さなSNSの空間だけが、うーちゃんの心をなぐさめる。脆い母、身勝手な父、女性に生まれたこと、血縁で繋がる家族という単位・・・自分を縛るすべてが恨めしく、縛られる自分が何より歯がゆいうーちゃん。彼女はある無謀な祈りを抱え、熊野へと旅立つ・・・。未開の感性が生み出す、勢いと魅力溢れる語り。痛切な愛と自立を描き切った、20歳のデビュー小説』

正しくこの小説の魅力は、主人公のうーちゃん(うさぎ)の感性(従って著者の感性とも言い換えられますね)と語り口・文体に尽きると思います。時に語り手(うーちゃん)の主語が省かれ、似非関西弁・似非九州弁・幼児語がない交ぜになった不思議でリズム感のある架空の方言によって、弟の『おまい』に語り掛けるという体裁を採っています。

 



 

湯船に漂う従姉妹の初潮の血を金魚と思って救って見せようとした描写で始まるという不思議な感性が、女という性の得体のなさを象徴して見せた上で、冒頭からこの小説世界になんとも独特な雰囲気を与えることに成功しています。

 

幾つか感銘を受けた文章を並べてみます。その独特な文体・語り口をお楽しみ下さい。

 

『風のくらく鳴きすさぶ山に夕日がずぶずぶ落ちてゆき、川面は炎の粉を散らしたように焼けかがやいていました。夕子ちゃんを焼いた煙は、柔こい布をほどして空に溶けてゆくように思われます・・・夏の風が山の頂上から川の対岸に茂った丈の高い草までをゆらして、最後にむわりとした草いきれを残して失速する、そのうるさいような匂い』

『(うーちゃんは赤ん坊が嫌い)その丸い目にはひれ伏すしかなかったんよ、あかぼうのひとみはかみさまに守られた憎らしいひとみなんよ。信仰を持ったひとみほど強いものなどないんです、たとえうーちゃんにはかたわらの女がただの女に見えたとしても、あかぼうのひとみにはたしかにかみさまのようにうつっていて、エイリアンみたいに真っ黒に濡れたそれは人間を断罪する力を持っている。』

『かかは、自分の中の感情をさぐって眉間のあたりに丁寧に集めて、泣くんです。涙より先に声が泣いて、その泣き声を聞いた耳が反応してもらい泣きする、かかは毎回そういう泣き方をしました・・・かかは、ととの浮気したときんことをなんども繰り返し自分の中でなぞるうちに深い溝にしてしまい、何を考えていてもそこにたどり着くようになっていました。おそらく誰にでもあるでしょう。つけられた傷を何度も自分でなぞることでより深く傷つけてしまい、自分ではもうどうにものがれ難い溝をつくってしまうということが、そいしてその溝に針を落としてひきずりだされる一つの音楽を繰り返し聴いては自分のために泣いているということが。』

『うーちゃんはにくいのです。ととみたいな男も、そいを受け入れてしまう女も。あかぼうもにくいんです。そいして自分がにくいんでした。自分が女であり、孕まされて産むことを決めつけられれこの得体の知れん性別であることが、いっとう、がまんならんかった。男のことで一喜一憂したり泣き叫んだりするような女にはなりたない、誰かのお嫁にも、かかにもなりたない。女に生まれついたこのくやしさが、かなしみが、おまいにはわからんのよ。』

 

うーちゃんからこう言われる『おまい』こと弟のみっくんに同情してしまいます。男というのは古来このように糾弾される性であることは避けられぬ事実です。

 

『不幸を信じる目、さいわいを信じる目、何でもいい、とかく心からの信仰をもつ目をうーちゃんは羨み僻んでいるんでしょう。うーちゃんのかかに対する信仰は消えていく一方でした・・・なんでこうまでして苦しめられんのにあかぼうつくるまえに離れなかったんだろう、なんでこのひとは、しにたいしにたいと言いながらしないんだろうとうらみました。彼女がしぬとわめくたびにうーちゃんにもその気持ちはうつります。もう、つらくて。ずうっとがまんしてた、つらいよお、うーちゃんの肌のしたに詰まった肉が叫ぶんです。しにたいよお。』

『押し入った空気吐き出せんくて破裂しそうになった胸抱えて、うーちゃんは立ち上がりました。いとしさは抱いたぶんだけ憎らしさに変わるかん、かあいそうに思ってはいけん。』

 

うーちゃんのかかは、祖母からは伯母の遊び相手としておまけに生まれたと言われ続け、伯母が祖母の愛情を独り占めするので愛情欲しさにととと結婚しますが、DVと浮気で出ていかれてしまう。伯母は早くに死ぬことで祖母の愛情を永遠に繋ぎ止め、忘れ形見の従姉妹を溺愛し、惚けていく中で祖母はかかのことを忘れてゆく。そんなかかは娘であるうーちゃんに甘え、うーちゃんは学校にも行けなくなり浪人する。でも誰よりもかかを愛している。その一方で、かかを遠ざけ施設にでも入れて心の中で殺してしまいかねない。そう思うとうーちゃんは、自分がかかを産んで、一から育てなおしてやりたいと願うようになります。

 

『かかをととと結ばせたのはうーちゃんなのだと唐突に思いました。うまれるということは、ひとりの血に濡れた女の股からうまれおちるということは、ひとりの処女を傷つけるということなのでした。かかを後戻りできんくさしたのは、ととでも、いるかどうかも知らんととより前の男たちでもなくて、ほんとうは自分なのだ。かかをおかしくしたのは、そのいっとうはじめにうまれた娘であるうーちゃんだったのです。』

『すべてのばちあたりな行為はいっとう深い信心の裏返しです。・・・そういうことをわざとやってみることは、そのばちあたりな反抗は、何か理解を超えた力があるという前提に立ってこそ存在しうるんです・・・ばちあたりな行動はかみさまを信じたうえでちらちらと顔色をうかがうあかぼうの行為なんでした。そいしてばちがあたったとき、その存在にふるえながらようやく人間たちは安心することができるんです。自分のことを本当に理解する誰かと繋がっているという安心感に、身をまかしることができるのんよ。』

『自分がはっきょうしたのか手っ取り早く知りたかったら、満員電車にすわってみれ。ほかの席が満ぱんのぎゅうぎゅうまんじゅうなのにお隣がぽっかしあいていたとしたら、それがおまいのくるったしるしです。おまいがいないとき、かかには両隣を埋める人間はいないかん、うーちゃんは必ずかかを端っこに座らせて自分がしっかと詰めて隣に座ります。ずっとそうやっってきたんです。隣があいたらかかが傷つくかん、・・・そいでも、そんな生活ともさいならです。うーちゃんを産むことでよごれてしまったかあいそうなかかはもうすぐこの俗世から解放されるんでした。ようやくすくわれるんでした。』

 

古典的ともいえるテーマを、独特の文体で描き出した力量は素晴らしいの一語です。図書館で予約した2作目(なんと順位60番め!)の芥川賞受賞作を読むのが今から楽しみです。
2021.01.18

家の燃費の話です 6

 

すまい担当の大木です。

 

今回は高性能住宅R+houseの基礎に関しての投稿です。

 

R+houseの基礎は基礎断熱と呼ばれている基礎となります。

 

基礎断熱とは基礎の立上り部分に断熱材を施工し、建物の外周部にて断熱を行う工法です。

 

床下と室内それぞれの温度差が少なくなり、より快適な空間を実現します。

 

基礎の内部を居室に近い状態にするために通常の基礎に比べると工事自体手間はかかりますが

 

それによって家の燃費は格段にUPします。

 

(1階の床下が冷たくないので床暖房もあまり必要ないと思います。)

 

今回はR+houseでの基礎工事動画を添付させて頂きます。

 

是非ご覧ください。

 

2021.01.17

R+house 取材先で「素敵」がいっぱい!

住まいづくり担当の情野です。

 

フリーマガジン イエタテ の取材立会に行ってきました。

今回の取材先は「R+house」のお宅です。

 



 

数多く取材しているカメラマンさんも、建築家ならではデザインに関心していました。

建築家のデザインってやっぱり「素敵◎」

 

そして、、家の中に入って更にビックリ(*_*)

 

「暑い・・」

 

書き方が悪いかもしれませんが、

ここ数日の極寒のせいで、私を含め取材陣は厚着。

改めてR+houseの断熱性能に驚きです。

 

UA値(断熱性)やC値(気密性)も良い数値だったことに加え、

基礎断熱採用で床下も室温と同程度で「床暖房いらず」です。

熱交換の換気システムの効果も「素敵♡」

 

この冬はエアコン1台で家中18℃以下になったことがないとの事。

でも今月の光熱費は、以前のお住まいの半分程度。。これも「素敵☆」

健康で経済的な住まいだと改めて実感しました。

 



 

更に、下のお子さんはお話しができるようになっていて、いっぱい遊んでもらいました。

「素敵♥」なご家族に恵まれてホント感謝です。

 

2021.01.15

シリーズ・徒然読書録~浅田次郎著『流人道中記』

あれもこれも担当の千葉です。

 

読書は好きで、常時本を持ち歩く癖が付いてしまいましたが、読み方は極めて大雑把、何かしら記憶のどこか、心の片隅にでも蓄積されていれば良いという思いで雑然と読み流しています。暫くするとその内容どころか読んだことさえ忘れてしまうことも。その意味で、読者の皆様には退屈でご迷惑かとも恐縮しつつ、ブログに読書録なるものを記してみるのは自分にとって有益かも知れないと思い、始めてみました。皆様のご寛恕を請うところです。

 

徒然なるままに読み散らす本の中から今回取り上げるのは、浅田次郎著『流人道中記 上・下』(中央公論新社刊)。

幕末、姦通という破廉恥罪を犯したエリート中のエリート武士である旗本の青山玄蕃を、蝦夷福山の松前家へお預けとするため、下級武士である町奉行与力の石川乙次郎が、江戸から津軽の三厩まで押送する道中記で、道中で巻き込まれる幾多の事件を通して、お家取り潰しとなっても切腹の命を拒み流人となることを選んだ青山玄蕃の真意や生き様が徐々にあらわになって行きます。終いには玄蕃が冤罪の咎を被ってでも抗おうとした硬直化した法や武士道などの社会の矛盾や、命と引き換えにしても守ろうとした武士や人としての矜持など、旅の始まりとは全く違った玄蕃像が見えてくるという物語です。

 



 

『光といえば生籬(いけまがき)に宿る迷い蛍と、式台に座る侍の膝元に置かれた、かそけき手燭のみである。・・・御玄関からは廊下が延びる。戸は閉て切ってあるゆえ漆黒の闇である。床板の軋みに用心しいしい角を折れれば、ようやく奥向きの広間から蠟燭の光が耀い出ていた。廊下は畳敷きの御入側となり、貴き役人の溜間であると知れる。』のっけから浅田氏の文章の匠みさにノックアウトされ、著者が気合・力を込めた作品であることが知れます。

語り手・主体は石川乙次郎ながら、場面によっては主語が入れ替わり立ち替わり、それぞれの人物の心情を良く現す文体が用いられています。

少し長くなるかも知れませんが、この小説のテーマや、主人公青山玄蕃の生き様が知れる部分、こころ動かされるような匠な文章を書き出してみます。最後に青山玄蕃の、浅田次郎の強烈なメッセージが用意されています。

 

『腹を切るのが武士道ならば、まともな侍なんざひとりもおるめえ。まちげえのたんびに腹を切っていたら、命なんざいくつあっても足らねえさ。手間ひまかけてお裁きをするのは面倒だから、腹を切れ腹を切れとせっつくのだ。おいおい、面倒で腹を切らされてたまるかよ。しかも、聞いて呆れるじゃあねえか。腹さえ切れば御家は残してやる、ときやがった。こうしてやるから腹を切れてえのは、商い腹だろう。それこそ武士道に悖るじゃねえか。だから俺ァ、三奉行の前で尻をまくってやった。切腹なんざ痛えからいやだ、ってな。それで話はとことん面倒になった。ざまあみやがれ。』

 



 

(亡夫の魂に見立てた蛍)『(亡夫が丹精した庭の)杉苔の上の蛍が舞い上がって、膝元の盆の縁に止まった。緑の光を尻に息づかせて、飛び去る気配はなかった。』宿の未亡人女将に亡夫の好物だった鰻を残す心遣いの玄蕃。

 

『その力強さはともすると、地べたに遣り場のない怒りをぶつけているようにも見えた。やはり僕と同様、思い出したくもないことどもが溢れてきたのかもしれなかった。草鞋のあしうらが、胸の底に埋めたはずの石を踏んだ。』

『僕は僕の苦悩の、いかに手前勝手であるかを知った。世間は苦にまみれている。』

『世の中、情理は裏と表でござんす。道理の通らぬ情に絆されてはなりやせん。情のねえ理屈を通してもなりやせん。』

懸賞首の大盗賊、幼馴染の飯盛り女、賞金稼ぎの浪人を、玄蕃、三方良しの人情裁き。

 

『御手先組同心が一躍出世を果たすなどありえぬ話だった。そんなことよりも、ささいなまちがいも犯さず、一代抱えの分限をどうにかわが子に申し送らねばならなかった。二百幾十年もの太平が続けば、武士が堕落するのは当然だ。わけても政とは無縁で、常日ごろから御城の御門番が務めの雑兵など、役人の数にも入るまい。だが、二百幾十年も同じ御役を世襲していれば、好むと好まざるとにかかわらず、ほかの道は考えようもなかった。』

『「忠」や「孝」の道徳によって仇討ち法を超えることを僕は否定しようとしたのだが、内蔵助はそうではなくて、おのれの行為は「義」の権威に拠ると言うのだ。武士があらゆる権力を握っている世の中では、大義なり正義なりが至上の徳目でなければならず、それに比べれば「忠」も「孝」も「狭い了簡」なのだった。』

『陽光は雲に隠れて、秋風の立つ午(ひる)下がりだった。時刻を読みたがえた蜩(ひぐらし)が、武家屋敷の木立に鳴き上がった。まるで僕らの無力さを嗤(あざわら)うかのように。』

七年もの間探し求めた居合の達人に挑む仇討ち。罪もなく法の名の下に磔の刑に処せられる、騙されて盗賊の手引きをしてしまった丁稚小僧。法の名の下の不条理な死刑と、無益と思える私刑としての仇討ち。玄蕃と奉行の感動の計らい。

『ふいに僕は「斬る」と「殺す」が同義であると知った。人の命を奪うことに変わりはあるまい。だが武士は決して「殺す」とは言わない。まるで「斬る」がどのような場合であれ正当な行為であるかのように。たぶん、武士だけが「斬る」ことを許されているのだろう・・・(仇討ちや助太刀のように)伝八郎が内蔵助を殺し、僕が伝八郎を殺す。そんな言い方は武士道にそぐわないが、「殺す」を「斬る」に言い換えたとたんたちまち、武士の道徳に敵う、勇ましくも正しい行いのように思えてしまう。もしも僕らの内には、殺人を勲しとする野蛮な気風がいまだに生きていて、武士道なるものの正体はそれなのではあるまいか。・・・敵討ちは果たされねばならぬという前提のもとに、御法ではなく仇討免許状なるものを権威として、ただひたすら敵を殺そうとしているのだ。だとすると、これは私刑ではないか。。。「敵討ち」という名の死刑を執行しようとしているだけではないのか。』

 

『(明け方)緩やかに湾(のた)れる曠野を行くうちに、天上の朱は退いて今し目覚めたような夏空が広がった。遥か行手に、退きそこねた天の朱を零したような空き地が見えた。』

仮病で宿村送りを続ける老婆。帰っても飢餓に苦しむ村に受け入れられるべくもない老婆。『なすて人はこんなにやさしいだすか。天下の御法を欺いて楽な旅ばかりするおらにまで、なすてこんなにやさしいだすか。』

 

『俺は怯懦ではありたくない。どんなときでも。いかに太平の世に生きようと、武士である限り、また男である限り、卑怯者であってはならぬ。腹を切らぬが怯懦か。そうではあるまい。義を見て為ざるは勇なきなり。人としてなさねばならぬ正しいことと知りながら、それを行わないのはすなわち、怯懦である。しからば、時と場合によっては腹を切るのも怯懦のうちであろうよ。御老中から御奉行衆まで、みな口を揃えて言うた。潔く腹を切れば青山の家は残してやる、とな。だが、おのれの信ずる正義を恥として腹を切るなど、それこそ怯懦であろう。まして命と引き換えに家を残そうなど、まるで商腹(あきないばら)ではないか。だから俺は答えた。「痛えからいやだ」と。身が痛いのではない。良心が痛む。俺は武士だからの。』

『いいかえ、乙さん。孔夫子の生きた昔には法がなかったのさ。礼ってのは、そうした結構な時代に、ひとりひとりがみずからを律した徳目のことだ。人間が堕落して礼が廃れたから、御法ができたんだぜ。』

『僕らが全能と信ずる法は、人間の堕落の所産に過ぎぬのです。・・・仁義礼智信。人がみな神に近かった清廉な時代には、法によって戒める必要などなかった。僕は今、現実と御法の狭間で思い悩んでいます。・・・今日でも「礼」は「法」の優位にあらねばならないはずです。』

『青山玄蕃は無法者にちがいないが、もしや無礼者ではないのではないか。』

『俺は武士が嫌いだったわけではない。武士道というわけのわからなぬ道徳を掲げ、家門を重んじ、対面を貴び、万民の生殺与奪を恣(ほしいまま)にする武士そのものに懐疑したのだ。』

『武士が命を懸くるは、戦場ばかりぞ。俺は倅にも家来どもにも、心からそう言うた。対馬の屋敷に討ち入れば、俺たちもみな糞になっちまうだろ。俺は俺のなすべきことを悟った。二百幾十年の間にでっち上げられた武士道をぶち壊し、偽りの権威で塗り固めた「家」を潰してやる。それは青山玄蕃にしかできぬ戦だった。大勇は怯なるが如く、大智は愚なるが如しという。ならば俺は、破廉恥漢でよい・・・われら武士はその存在自体が理不尽でであり、罪ですらあろうと思うたのだ。よってその理不尽と罪とを、背負って生きようと決めた。非道を暴くは簡単、ただ義に拠ればよい。まして敵の屋敷に討ち入るは簡単、その上腹切って死ぬれば、あっぱれ武士の誉れよとほめそやされるであろう。だが、それでは俺も糞になる。しからば、俺の選ぶ道はひとつしかない。武士という罪を、おのが身で償う。千年の武士の世のささやかな贖罪とする。青山玄蕃にしかできぬ決着はそれだ。』

『武士の本分とは何ぞや。考えるまでもあるまい。それは戦だ。大坂の陣が終わり徳川の天下が定まり、元和偃武(げんなえんぶ)が唱えられた折に、われら武士は変容せねばならなかった。しかるに、戦国の世を勝ち抜いて幕府を開かれた権現様も、その跡を襲られた大徳院(にだい)様も、そもそもは天下の政とは無縁の武将にあらせられた。よって太平の世は力ずくに保たれるものと信じておられた。そうして、政を担う武士の道徳は戦国のままに硬直した。御歴代様の遺徳を蒙って二百六十年もの間、戦をせずにすんだというに、今もこうして大小の二本差しを捨てられぬ。変容を忌避し、万事を先例に倣い続けた末、甚だ理屈にもあわぬ儀礼と慣習で身を鎧った、奇妙な武士が出来上がった。さような化け物は存在そのものが罪だ。たちの悪いことに、そうした武士は権威なのだ。御大名から足軽まで、貧富のちがいはあっても権威であることに変わりはない。そしてその身分は「家」によって保たれる。なにゆえに。それは血で血を洗う戦国の世には、信じられる者が血族ばかりであったからだ。われらを縛めている道徳ばかりでなく、こうした「家」の尊厳についても、戦国のまま硬直してしもうた。・・・武士である限り、家がある限り、この苦悩は続く。すなわち、武士はその存在自体が罪なのだ。大出対馬守は敵ではなく罪障であった。しからば俺は、憎む前に憐れまねばなるまい。同じ武士としてその罪障を背負い、武士道という幻想を否定し、青山の家を破却すると決めた。青山玄蕃の決着だ。』

『「おのれに近き者から目をかけるはあやまりぞ。武士ならば男ならば、おのれのことは二の次ぞ。まして大身の旗本ならば、妻子のこととて二の次ぞ。」僕は心打たれた。その気構えのあったればこそ、武士は権威なのだ。

 

『この人は破廉恥漢ではない。そうと見せておのが身を、千年の武士の世の贄(にえ)としたのだ。』

 

 
2021.01.06

本年もご愛顧のほど宜しくお願い申し上げます

あれもこれも担当の千葉です。

 

皆様明けましておめでとうございます。旧年中は格別のご厚情を賜り誠にありがたく、御礼申し上げます。本年も倍旧のご厚誼のほど、偏えにお願い申し上げます。

 

当社も今週恒例の三嶋大社での祈願をし、令和3年の仕事始めとなりました。

 



 

昨年暮からの新型コロナの感染激増の対策として、年始の祈願も例年にない対策がなされています。お祓いは本殿脇で先に済ませ、本殿に入ることのできる人数が制限され、白装束も使い捨ての簡易なものを用い、拝礼のみで玉串奉奠も割愛するといったものです。

少し寂しい感じもする一方で、工夫をしながら新しい暮らし方に対処して行こうという力強さとも映り、新年の陽光の中、勇気づけられる思いが致しました。

また昨年2月以来水を枯らした手水舎には、素敵なお華が活けられていました。不自由な中にも小さな楽しみを見つけ、生活に潤いをもたらそうとする素敵な心遣いに心が温まりました。

 



 

折からの一都三県への緊急事態宣言の発出など、新型コロナの勢いは新年早々圧倒的なものがありますが、三密や飛沫感染のリスクを徹底して避けるなど、慎重な行動に心掛けながら、不自由をバネにして力強く、明るく過ごして行きたいと存じます。

重ねて本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

 
2020.12.29

穏やかで素敵な新年をお迎え下さい

あれもこれも担当の千葉です。

 

今年のハイライトとなるべき東京オリンピック・パラリンピックは来年へと延期されてしまい、一年を振り返って見ればやはり、絶えず新型コロナ問題が話題に上る年となりました。未曾有の事態ではありますが、この20年を見るだけでも、ニューヨークの9.11に始まりリーマンショックや3.11など、大きな事件や災害は日常茶飯事とまでは言わないまでも少なくない頻度で起こっており、平穏無事な日々が続くのは決して当たり前のことではなく、とてもとてもありがたいことなのだと教えられているようです。

そんな世界中が不安で窮屈な思いをしたこの一年の暮を息災に迎えられますのも、ひとえにお客様やお取引先の皆様のご愛顧ご協力のおかげであると、心より感謝申し上げます。

 



 

午後からの大掃除を終え(私は足手まといでただうろうろするばかりでしたが)今日が今年の仕事納めとなります。お正月は4日の月曜日から営業を始めさせて戴きます。何卒来年も変わらぬご愛顧ご協力のほどをお願い申し上げます。どうぞ良いお年をお迎え下さいませ。

 



 
2020.12.29

家の燃費の話です 5









住まい担当の大木です。

以前の投稿で日本での省エネに関する規制は自動車業界から数年遅れている…

との話を少しさせて頂きました。



そんな中、衝撃的な報道が流れました。




【-2030年前半、ガソリン車販売禁止-】



これは、政府が進める「2050年カーボンニュートラル」の一環のようです。

自分も自動車も買い換えるなら、より燃費の良い自動車への乗り換えを検討します。

 

家の場合はどうでしょうか?

賃貸なら比較的簡単に、住み替えも可能ですが持ち家となると住んでから家の性能を上げることはとてもコストがかかるリフォームが必要となります。

 

新築の購入に関しては家の性能に関しても一考してみてはいかがでしょか?

 

ちなみにR+houseでは、お引き渡し後に皆様の家の性能が記載されたティシュボックスを

記念品として差し上げています。



右下に 断熱性能の数値(Ua価)、気密性能の数値(C価)が刻印されています。

良い記念になりそうですね

 

 





 




2020.12.28

【午前の部】も開催! 2月14日は賢い家づくり勉強会

住まい担当の情野です。

 
令和3年2月14日(日)に賢い家づくり勉強会の開催が決定!
今回は【午前の部】も追加開催し、よりご参加しやすくなりました☆


~知らなきゃ損する!?~

勉強会の内容は、住宅会社を選ぶモノサシを持ちましょうがテーマとなっています。

「いつかは欲しいけれど自分はまだ・・」

「住宅購入の最適なタイミングは?」

「住み心地のいい快適な住宅を建てるには?」

「住宅価格はなぜ高い?この秘密を知れば安くなる!」

「土地選びのポイントは?」

など、気になる内容が満載です。

 

感染症予防の為、少数限定となりますのでお早めにご予約くださいね。

参加特典は、

「トクする家づくり損する家づくり」やデザイン住宅の冊子を予定しています。

また、抽選で午前午後各1組様に「旅行券」をプレゼント!

ご予約締め切り日:2/12(金)です。

開催時間は

【午前の部】10:00~12:30、

【午後の部】14:00~16:30 となります。

ご予約・お問い合わせは

https://www.rplus-mishima.com/contact

フリーコール:0120-88-2964

お気軽にご参加ください!

 
2020.12.18

シリーズ・徒然読書録~村上春樹著『一人称単数』

あれもこれも担当の千葉です。

 

読書は好きで、常時本を持ち歩く癖が付いてしまいましたが、読み方は極めて大雑把、何かしら記憶のどこか、心の片隅にでも蓄積されていれば良いという思いで雑然と読み流しています。暫くするとその内容どころか読んだことさえ忘れてしまうことも。その意味で、読者の皆様には退屈でご迷惑かとも恐縮しつつ、ブログに読書録なるものを記してみるのは自分にとって有益かも知れないと思い、始めてみました。皆様のご寛恕を請うところです。

 

徒然なるままに読み散らす本の中から今回取り上げるのは、村上春樹著『一人称単数』(文芸春秋社刊)です。図書館の予約の順番待ちがかなり長くかかったのは、人気作家の新刊本ゆえでしょう。

 



 

著者6年ぶりの新作短編集(これまでに発表された七編に、この本のために書き下ろされた一編を合わせた短編集)。著者の心に残る女性を巡る物語など、自伝的・個人的な思い出からなる短編集で、個人的な思い出が集まり複眼的になり、ひいては個人的な体験を超越し、社会や時代の体験に昇華していくという世界観を表現しているのかなと思わせる構成になっています。第二編目の短編にある『中心がいくつもあって、しかも外周を待たない円』という表現が象徴的です。

いくつかの短編をご紹介してみます。

 

一編目の『石のまくらに』。

『たち切るも/たち切られるも/石のまくら/うなじつければ/ほら、塵となる』

学生の頃に一夜限りの縁の女性が残した私家版の短歌集。性愛の記憶と共に死を想起させる歌。自らの身を投げ出す覚悟で初めて後の世に残る言葉を紡ぎ出すことができる、という著者自身の文学における姿勢を表明したような作品に思えました。

『瞬く間に人は老いてしまう。僕らの身体は後戻りすることなく刻一刻、滅びへと向かっていく。・・・それでも、もし幸運に恵まれればということだが、ときとしていくつかの言葉が僕らのそばに残る。・・・やがて夜が明け、激しい風が吹きやむと、生き延びた言葉たちは地表に密やかに顔を出す。彼らはおおむね声が小さく人見知りをし、しばしば多義的な表現手段しか持ち合わせていない。それでも彼らには証人として立つ用意ができている。正直で公正な証人として。しかしそのような辛抱強い言葉たちをこしらえて、あるいは見つけ出してあとに残すためには、人はときには自らの身を、自らの心を無条件に差し出さなくてはならない。そう、僕ら自身の首を、冬の月が照らし出す冷ややかな石のまくらに載せなくてはならないのだ。』

 

二編目の『クリーム』。

招待されたピアノリサイタルの会場に辿り着くと会場は閉館。リサイタルなどなかった。公園の四阿にしゃがみ込んだ18歳のぼくの前に現れた老人が投げかける言葉。『中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円を、思い浮かべられるか?』

『時間をかけて手間をかけて、そのむずかしいことをやり遂げたときにな、それがそのまま人生のクリームになるんや。』

クレム・ド・ラ・クレム。クリームの中のクリーム、とびっきりの最良のもの、人生のいちばん大事なエッセンス。

『心から人を愛したり、何かに深い憐れみを感じたり、この世界のあり方についての理想を抱いたり、信仰を見いだしたりするとき、ぼくらはとても当たり前にその円のありようを理解し、受け容れることになるのではないか・・・きみの頭はな、むずかしいことを考えるためにある。わからんことをわかるようにするためにある。それがそのまま人生のクリームになるんや。それ以外はな、みんなしょうもないつまらんことばっかりや。白髪の老人はそう言った。』

 

四編目の『ウィズ・ザ・ビートルズ』。

1964年、高校生の頃、廊下ですれ違った美しい少女が大事そうに胸に抱えていたビートルズの2作目のアルバム(All My Loving などのオリジナル曲以外にも Please Mister Postman や Roll over Beethoven が入っている)。



『本当にそこにあったのは、音楽を内包しながら音楽を超えた、もっと大きな何かだった。そしてその情景は一瞬のうちに、僕の心の印画紙に鮮やかに焼き付けられた。焼き付けられたのは、ひとつの時代のひとつの場所のひとつの瞬間、そこにしかない精神の光景だった。』

『ポップ・ソングがいちばん深く、じわじわと自然に心に染み込む時代が、その人生で最も幸福な時期だと主張する人もいる。』

この論から行くと私は中学生か大学生、いずれにしても遠い過去となってしまい、懐かしむ気持ちが愛おしい反面、寂しさも感じます。

 

五編目の『ヤクルト・スワローズ詩集』

野球場に足を運ぶのが好きで、おなじ題名の詩集まで刊行した大のスワローズ・ファンの村上春樹氏。弱小スワローズが初優勝した1978年に初の小説『風の歌を聴け』(村上作品の中で私が最も好きな小説)で群像新人賞を獲得しました。

『そう、人生は勝つことより、負けることの方が数多いのだ。そして人生の本当の意味は『どのように相手に勝つか』よりはむしろ『どのようにうまく負けるか』というところから育っていく。』

『望遠鏡を逆からのぞいているような、不思議に透きとおった記憶。とても遠く、とても近い。』

『売り子の数が少ない黒ビールを探す。やっと見つけて手を挙げて呼んだ黒ビール売りの高校生が『すみません、あの、これ黒ビールなんですが』と謝る。その夜きっとたくさんの人に謝ったに違いない。僕も小説を書いていて、彼と同じような気持ちを味わうことがしばしばある。そして世界中の人々に向かって片端から謝りたくなってしまう。『すみません。あの、これ黒ビールなんですが』と。』

 

六編目の『謝肉祭(Carnaval)』。

親しかった中で最も醜い女性。自分が醜いと自覚し、受け容れ、ましてやいくぶんの愉しみを見いだせる、普通ではない存在の、10歳ほども年下の女性と二人でシューマンの『謝肉祭』をいろんな演奏で数十枚を聴く。

『私たちは誰しも、多かれ少なかれ仮面をかぶって生きている。まったく仮面をかぶらずにこの熾烈な世界を生きていくことはとてもできないから。悪霊の仮面の下には天使の素顔があり、天使の仮面の下には悪霊の素顔がある。どちらか一方だけということはあり得ない。それが私たちなのよ。それがカルナヴァル。そしてシューマンは、人々のそのような複数の顔を同時に目にすることができたーー仮面と素顔の両方を。なぜなら彼自身が魂を深く分裂させた人間だったから。仮面と素顔の息詰まる狭間に生きた人だったから。』・・・彼女は本当は『醜い仮面と美しい素顔ーー美しい仮面と醜い素顔と言いたかったのかもしれない。

『それらは僕の些細な人生の中で起こった、一対のささやかな出来事に過ぎない。今となってみれば、ちょっとした寄り道のようなエピソードだ。もしそんなことが起こらなかったとしても、ぼくの人生は今ここにあるものとたぶんほとんど変わりなかっただろう。しかしそれらの記憶はあるとき、おそらくは遠く長い通路を抜けて、僕のもとを訪れる。そして僕の心を不思議なほどの強さで揺さぶることになる。森の木の葉を巻き上げ、薄の野原を一様にひれ伏せさせ、家々の扉を叩いてまわる。秋の終わりの夜の風のように。』

 

八編目の『一人称単数』(書き下ろし)。

普段着でないのにたまにスーツを着ることがある。するとなぜか罪悪感や倫理的違和感を抱く。自分の経歴を詐称しているようで。スーツを着て初めてのバーで鏡を見たとき、自分がどこかで人生の回路を取り違えてしまったという感覚を抱く。

『これまでの人生には・・・いくつかの大事な分岐点があった。右と左、どちらにでも行くことができた。そして私はそのたびに右を選んだり、左を選んだりした・・・そして私は今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として実在する。もしひとつでも違う方向を選んでいたら、この私はたぶんここにはいなかったはずだ。でもこの鏡に映っているのはいったい誰なのだろう。』

これまでの人生や選択を悔やむとか今とは違う自分を望むとかではなく、いくつもの違う道を経て来た今の自分とは違う幾人もの自分がいるのではと、ふと感じてしまうような瞬間、人生の逢魔が時を描いたような小品でした。

二編目の『クリーム』の老人が言った『中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円』とは、自分以外の人々ではなく、こうしたパラレルワールドの自分、一人称単数の自分が沢山いるという世界観のことかも知れないともふと感じました。