2021.04.28
シリーズ・徒然読書録~東山彰良著『流』
あれもこれも担当の千葉です。
読書は好きで、常時本を持ち歩く癖が付いてしまいましたが、読み方は極めて大雑把、何かしら記憶のどこか、心の片隅にでも蓄積されていれば良いという思いで雑然と読み流しています。暫くするとその内容どころか読んだことさえ忘れてしまうことも。その意味で、読者の皆様には退屈でご迷惑かとも恐縮しつつ、ブログに読書録なるものを記してみるのは自分にとって有益かも知れないと思い、始めてみました。皆様のご寛恕を請うところです。
徒然なるままに読み散らす本の中から今回取り上げるのは、東山彰良(あきら)著『流』(講談社刊)です。2015年、又吉直樹氏の『花火』が芥川賞を受賞した時の直木賞受賞作です。東山氏は台湾生まれの台湾人。その殆どを日本で育ち暮らしながら国籍は中華民国のままの作家です。祖父は大陸山東省出身の抗日戦士で、蒋介石とともに台湾に流れて来た外省人。この小説はこうした著者自身が自らのアイデンティティを追い求め、止むに止まれずに書き記した作品と言ったように感じます。
先住民族、先に福建省など大陸から入植していた内省人、日本統治時代の台湾人、蒋介石が連れて来た外省人。各々が複雑な関係にあるように、日本や日本人に対する感情も単純なものではありえません。日本人とするとつい甘えて『日本人に好意的な台湾』とひと括りにしてしまいますが、実際はとても複雑なものがあると気付かされます。同時に、古くは国民党と共産党、現代でも国民党と民進党など、鋭く敵対しながら同胞でもあり、友人もいる複雑な関係にも改めて思い知らされます。
蒋介石の死んだ翌日(1975年4月)、大好きだった祖父が何者かに殺された。主人公の葉秋生は浴槽に沈んだ祖父の死の第一発見者だった。誰に何のために殺されたのか気になって仕方ない秋生は、受験にも失敗し、不良との喧嘩に明け暮れ、終いにはヤクザに命を付け狙われる羽目に。そんな少年時代から兵役も失恋も経験した秋生は祖父の死の秘密を解きに、戻った時に投獄される恐れがあるにもかかわらず、祖父の故郷、大陸山東省へ渡るところからこの小説は始まります。
『わしらに大義なんぞありゃせんかった・・・こいつなんかは自分の両親をいじめた共産党の一家を皆殺しにして国民党に入ってきた。みんな似たり寄ったりさ。こっちと喧嘩してるからあっちに入る、こっちで飯を食わせてくれるからこっちに味方する。共産党も国民党もやるこたあ一緒よ。他人の村に土足で踏み込んじゃあ、金と食い物を奪っていく。で、百姓たちを召し上げて、また同じことの繰り返しだ。戦争なんざそんなもんよ。・・・密告はなにも共産党のお家芸だというわけではない。草の根レベルで監視社会を堅牢にし、政権に盾突く不満分子を早期発見すべく、国民党によっても推奨されていた。つまるところ共産党も国民党もおなじ中国人で、中国人の考えることはどこでもおなじなのだ。』
『人というものは同じものを見て、同じものを聞いても、まったく違う理由で笑ったり、泣いたり、怒ったりするものだが、悲しみだけは霧の中でチカチカともる灯台の光みたいに、いつもそこにあっておれたちが座礁しないように導いてくれるんだ。』
『台湾に退却した国民党・外省人は、ここをいっときの仮住まいと考え、状況が好転すれば大陸に戻ると思っていた。その希望は蒋介石の死とともに潰えた。』
『1895年から1945年までの五十年間、台湾は日本の統治下にあった。言うまでもなく、日清戦争の敗戦による割譲である。この間、同化政策によって台湾の学校教育はすべて日本語で行われた。だから必然的に、日本人として生き、日本を故郷のように慕う岳さんたちのような日本語世代があらわれることになる。彼らの日本に対する愛情には並々ならぬものがある。第二次世界大戦のときは、自ら志願して大日本帝国のために戦った人たちもいたほどだ。そのせいで約三万人が命を落としたと教科書には書いてある。アメリカから空爆も受けた。岳さんたちは日本人として、お国のため、昭和天皇のために命を投げ打ったのだ。なのに敗戦と同時に、日本は台湾をばっさりと切り捨てた。やっぱりきみたちは台湾人なんだ、台湾人は台湾人であって日本人ではない、どうかお幸せに。それまで日本人として生きて来た人々の自我は、このとき音を立てて崩壊した。大陸で共産党に駆逐された国民党がこの島になだれこんできたのは、(外省人であるわたしが言うのもなんだが)まさに泣きっ面に蜂だった。すぐに台湾人への弾圧が始まった。日本語のみならず、台湾語の使用まで禁じられた。台湾生まれの台湾育ちのわたしが、台湾語が不如意なのはこのためである。』
『きみのおじいさんが私たちを目の敵にする気持ちはわからんでもない・・・あなたたちは外省人でしょう?そしてあなたのおじいさんはおそらく大陸で抗日戦線を戦ったはずです。・・・彼の眼には、日本統治時代を懐かしむわたしたちのような者は、奴隷根性に骨の髄まで冒された裏切者に映るんでしょう。それはオーストリア人やチェコスロバキア人がドイツの歌を歌って、ナチスの統治時代を懐かしんでいるようなものかもしれません。・・・日本統治時代のすべてがよかったなどと言うつもりは毛頭ありません。ですが、わたしたちのグループはみんな多かれ少なかれ日本人に助けられた経験があるんですよ。』
『魚が言いました。わたしは水の中で暮らしているのだから、あなたにはわたしの涙が見えません。・・・自分の痛みにばかり敏感で、他人も同じような痛みを抱えているなんて思いもしなかった。』
つくづく『台湾人はみな日本人が好き。それは日本統治時代に日本が台湾に良いことをしたからだ。』と十羽一からげにして、台湾人の日本に対する気持ちに関して問題意識を持とうともしない、疑ってみようともしない傾向の強い現代の日本人は、心すべきところだと受け止めました。
『きみのおじいさんはいつも不機嫌でした。胸の中にまだ希望があったんでしょうね。苛立ちや焦燥感は、希望の裏の顔ですから。怒りの炎を消すまいと、いつも自分を駆り立てていた。大陸を出た時に止まってしまった祖父の時計は、大陸にガツンと一発お見舞いしてやらない限り、ずっと止まったままだったのだ。』
『おれたちの心はいつも過去のどこかにひっかかっている。無理にそれを引き剥がそうとしても、ろくなことにはならん。』
『心配事は心配事として、欺瞞は欺瞞としてあとまわしにできるほどに、わたしは大人になっていた。・・・わたしはわたしなりに、あの日から十何年分前へ進んだ。人並みに軍隊で揉まれ、人並みに手痛い失恋を経験し、人並みに社会に出、人並みにささやかなぬくもりを見つけた。出会いがあり、別れがあり、妥協し、あきらめることを覚えた。それはそれで大人になるということだが、これ以上心を置き去りにしては、もう一歩たりとも歩けそうになかった。』
『人は同時にふたつの人生を生きられないのだから、どんなふうに生きようが後悔はついてまわる。どうせ後悔するなら、わたしとしてはさっさと後悔したほうがいい。そうすればそれだけ早く立ち直ることができるし、立ち直りさえすればまたほかのことで後悔する余裕も生まれてくるはずだ。突き詰めれば、それが前に進むということなんじゃないだろうか。』
『もしかすると、じいちゃんは殺して欲しかったのかもしれない。どこかで、だれかに過去の清算をしてもらいたかったのかもしれない。』
『この一切合切を終わらせるために、そして宇文叔父さんを許すために、わたしは叔父さんを殺さねばならない。そう思った。叔父さんの血だけが、わたしの疑問や欺瞞や怒りに対する唯一の答えなのだから。それは連綿と続く憎しみの連鎖の、もっとも美しい終わらせ方だった。わたしたちは血を流さないこともできる。しかし血を流さずに、いったい何を証明できるだろう?祖父は家族みんなの命をかけて、過去の過ちを償おうとした。悪い風が吹き荒れる心中の苦痛を証明した。逆説的だけど、その覚悟がわたしたちの命を救った。』
『ありがとうね、いろんなことを胸にしまいこんでくれて。胸のつっかえを吐き出すのはいいことだけど、吐き出した言葉に引きずられて、あなたはわたしたちの手の届かないところへ行っちゃうかもしれないから。』
物語の始まり、秋生の少年時代の1975年の台湾。『いまよりうんと混沌としていて、どんなことでも起こり得た』まだ極めてプリミティブな社会が生き生きと描かれています。
『当時の台北市の西門町のあたりには安くて美味いがひどく不衛生な屋台が軒を連ね、数年に一度、B型肝炎を大流行させていた。そのような屋台では残飯の上澄みからすくい取った廃油を精製して食用油として再利用していた。ビール腹のようにボンネットをでんと突き出した市バスが朝から晩まで中華路をふさぎ、ガラの悪い運転士が大声で世界をののしりながら、まるでレーシングカーのようにぶんぶん飛ばしていった。タクシーの運転手たちはティアドロップ型のサングラスをかけ、血のような檳榔(ビンロウ)の噛み汁を窓から吐き飛ばし、喧嘩をも辞さない覚悟で客をだまくらかす。遠回りなどはあたりまえで、メーターに小細工をして十秒ごとに課金したり、こちらはたしかに百元渡したのにいけしゃあしゃあと五十元しかもらってないと言い張ったりした。』
『萬華といえば台北屈指の荒っぽい界隈である。売春宿や蛇を食べさせる店が軒を連ね、男女の悲しみや蛇の血のせいで街全体に饐えたようなにおいが漂い、刺青を入れ、檳榔の噛み汁で歯を真っ赤に染めた極道たちが暮らしていた。』
三十数年前、1980年代後半に二度ほど台湾を訪れたことがあります。台北などの都会では既にだいぶ豊かになってはいましたが、やはりかなりプリミティブな印象を受けました。
夜店の屋台では蛇を食べました。注文すると目の前で檻から手で掴み出した蛇の頭を、二本の柱に渡した縄にひょいと洗濯ばさみで止め、あごの下あたりに入れた切れ目からススーっと一気に皮を剥ぎ下ろします。そしてあごの下をナイフで裂いてショットグラスに血を溜め、さあ飲めと言って寄こします。更にナイフを入れて小指の先よりも小さく、暗い緑色の心臓を取り出して手のひらに乗せ、これもさあ呑み込めと言って寄こします。清水の舞台から飛び降りるつもりで生臭い血と私の掌の上でトクトクと脈を打つ心臓を一気に飲み干しますと、寄生虫がいると困るので消毒のためだと言って注がれた強い酒(アルコール濃度50%前後の白酒)をこれまた飲み干します。皮を剥かれた蛇は縄から降ろされまな板の上でぶつ切りにされ煮立った鍋に放り込まれ、丼に入れられて差し出されます。煮た蛇よりも揚げた蛇の方が美味いのですが、このプリミティブな雰囲気が好きで2度の訪台の際には夜店を大いに楽しみました。屋台の前の椅子の周りには、客が投げ捨てる食べ物を目当てに野良犬や野良猫がうようよしていました。
30年の年月を経て数年前にまた2度ほど訪台しましたが、衛生上の問題でしょうか、夜店は近代的に清潔になり(ちょうど日本のお祭りの屋台のよう)、蛇を食べさせる屋台は一軒も見つけられませんでした。あ、血のような檳榔の吐き捨てられた跡はまだ道路のあちこちにありましたが。