2016.12.13
お社巡り~鹿島神宮・香取神宮と佐原の街並
あれもこれも担当の千葉です。

 

神様のお導きか、ご縁があってこの晩秋、東国の由緒ある大きな神社に参詣する機会

が立て続けにありました。

 

まずは鹿島神宮。神武天皇の東征に因んだ西暦紀元前の建立とされていますが、

史実としてはもっと後世の建立でしょう。それでも8世紀編纂の風土記には常陸の

国の一宮として記述があるので、東国随一の古社であることは間違いありません。

また、今では『神宮』と称するお社は思いのほか数がありますが、ウィキに拠ると、

8世紀前半の日本書紀では伊勢神宮・石上神宮・出雲大神宮の3つのみ、10世紀

初頭の延喜式神名帳では伊勢大神宮・鹿島神宮・香取神宮の3つのみだったそうで、

古代社会にとってはとても大切な位置づけがされたお社であったことは間違いなさ

そうです。



この大鳥居は、元は石造りだったものが、先の東日本大震災の時に倒れてしまい、境内の

ご神木で再建したものです。



参道にあった松尾芭蕉の句碑。『名月や 鶴脛(つるはぎ)高き 遠干潟』。

 

有名な句『名月や 池をめぐりて 夜もすがら』とは異なり、この句は伝承不詳、つまり

芭蕉の作かどうか疑わしいとの説もあるようです。利根川下流の水郷地帯(干潟)にある

鹿島神宮と香取神宮は直線距離で15キロ弱。着物の裾を高く端折り、脛(すね)を鶴の

足のように高く見せながら干潟の中に立つと、鹿島神宮から香取神宮が見晴らせた、

という意味の句だと説明を受けました。(青森地方ではまた別の伝承があるようですが。)



鎌倉の鶴岡八幡宮も、我が三島の三嶋大社も、一般にお社の敷地は南北に細長くある

ものが多く、本殿は南を向いているものが殆どなのですが、この鹿島神宮の広大な敷地

は凡そ東西に細長く横たわっていますし、なんとその中央に鎮座する本殿は北を向いて

います。北の勢力(蝦夷?)を押える、謂わば東国の鎮守の願いが込められているから

だと聞きました。

 

また、本殿の装飾が東照宮に似ていると感じましたが、徳川将軍家の手厚い保護があった

からだそうです。

 

参道沿いには、君が代に登場する『さざれ石』や、ブランド化を図ろうとしている『鎌足桜』

もあり、鎮守のお社へ込められた期待の大きさを象徴するような広大な敷地でした。



同じ日に3つの『神宮』のうちの二つ目も参詣してしまいました。 香取神宮です。



こちらの石造りの立派な鳥居は大震災の被害を受けなかったのか心配になり、裏に回

って刻銘を見てみると、やはり『平成23年11月再建』とありました。茨城・千葉県境でも

大きな揺れだったことが伺えます。



時間の関係で三つ目は参詣できませんでしたが、鹿島神宮、香取神宮に、神栖市にある

息栖(いきす)神社を加えて東国三社と言うそうです。 利根川下流を挟んで、鹿島神宮~

香取神宮を底辺(長辺)とする二等辺三角形のような位置関係です。8世紀の風土記に

登場する鹿島神宮は『香島神社』と記されているとのことで、このお社群の相関性はかなり

高いのではないかと想像されます。



合併して今は香取市となった旧佐原市は、利根川の水運を利用した交易で栄え、

小江戸とも呼ばれたほどの賑わいだったそうで、今も倉・屋敷群や旧三菱館など

往時の繁栄ぶりが伺えます。

 





佐原は日本地図の伊能忠敬が出た街でもあり、生家の他に、伊能忠敬記念館も

ありました。



この橋、元々は橋のこちら側から向こう側へ農業用水を渡すための橋(樋・とい)だったものに

蓋をして人の通行の用にも供したものだそうで、名前も、『とよはし(樋橋)』となっていました。

今でも観光客用に、一時間に2回、水を流し落として往時の姿を偲ばせています。

 



街並みを歩いていてふと何処かで見たぞと目を惹く建物が。



小路幸雄氏の小説をテレビドラマ化した『東京バンドワゴン』のロケに使われた建物

でした。小説もドラマもファンだったため、思わぬ出会いに嬉しくなりました。



いつもはお土産と言えば、お菓子ばかりの甘党ですが、この日は珍しく、江戸以来の

老舗の逸品を買い求めました。東薫酒造さんの大吟醸酒『叶』と、油茂製油さんの

『玉締めごま油』。別に熱があった訳ではありません、念のため。