2015.08.15
シリーズ・徒然読書録~藤原帰一著『戦争の条件』
あれもこれも担当の千葉です。

 

読書は好きで、常時本を持ち歩く癖が付いてしまいましたが、読み方は極めて大雑把、

何かしらからだのどこかに蓄積されていれば良いという思いで、雑然と読み流します。

その意味で、読者の皆様には退屈でご迷惑かとも恐縮しつつ、ブログに読書録なる

ものを記してみるのは自分にとっても有益かも知れないと思い、始めて見ました。皆様

のご寛恕を請うところです。

 

徒然なるままに読み散らす本の中から気に入った本、今回は藤原帰一著、『戦争の条件』

(集英社新書)。ブログでは如何なる政治的・宗教的な主張もしないのが私の信条ですので、

今回の読書録も、その手のものではないことをご承知おき下さい。

 



 



 

裏帯にもあるように、著者は、例えば『B国における軍備拡大が進み、A国の

優位を脅かすに至った。この力関係の変化によって、A国の同盟国、B国の

同盟国それぞれについて、同盟関係にどのような変化が生まれると予測できるか。』

といったように、先入観を排し、できる限り中立的に考えてみる努力を読者に

要求します。いわば、考える授業、自分の思考力を鍛える授業の形式を採っています。

 

それというのも、『教育問題と並んで、国際問題は素人の発言が専門家と横並び

にされる領域である。予備知識がなくても誰でも発言ができ、知識と経験に根ざした

分析と知識も経験もない妄言の区別ができない。(中略)言いたいことを言えばよく、

言ったことは言いっ放しになるわけだ。(中略)ここではまず「意見」とか「視点」が

あって、その「意見」に根拠を与えるような「現実」が選び出されてしまう。ほかの議論

を批判する際にも、分析としてそれが適切なのかを争うのではなく、その議論を立てた

人の「意見」をターゲットに定め、相手の偏見を暴くことができれば自分の「意見」が

正しいことにされてしまう。』との危惧すべき現状を考慮してのスタイルとなっているのです。

 

特に、次の言葉には、学問に臨む姿勢としてだけでなく、経営に臨む姿勢としても、

心せねばならぬものと、強く感銘を受けました。

 

『国際問題について行われる議論の多くは、白い鳥を集めて鳥は白いと言う人と、

黒い鳥を集めて鳥は黒いと言う人との間の争いに過ぎなかった。』

 

『戦争を否定する人は戦争の招く痛ましい犠牲を繰り返し語ることはあっても、戦争を

原理的に否定することで世界の暴力が放置される懸念には目をつぶってしまう。

軍事力の重要性を語る人は世界に残された残虐な暴力とそのもたらす脅威には目を

向けても、戦争に訴えることがその脅威よりもはるかに多くの暴力と災厄をもたらす

危険については、見て見ぬふりをしてしまう。白い鳥を選ぶ人は黒い鳥に目も向けず、

黒い鳥を選ぶ人は白い鳥を無視するのである。』

 

著者は多くの設問に対し、『リアリズム』と『リベラリズム』という二つの異なる立場から

考察を加えて行きますが、現実の歴史がどちらも唯一の正解手ではなかったことを

示しているように、必ずしも著者としての答えを提示することなく、読者に結論を委ね

宙ぶらりん状況に放置します。ナショナリズムの功と罪を示したり、民主化や民主主義

自体が戦争の危険を増幅することもあることを示して、出口の見えないような国際政治

のパラドックスに読者を放り込みます。

 

本著の題名の『戦争の条件』を考えるということは、同時に『平和の条件』を考えること

でもあります。 現実の外交や国際政治とは、まさに複雑に利害や価値観が対立し

絡まり合い、霧深いパラドックスに満ちた過酷な状況の中で、白い鳥も黒い鳥も視野に

入れた上で、一つひとつ責任と覚悟を以て選び取って行くものなのだと実感させて

戴きました。またふと、高校生の頃に読んだマックス・ウェーバーの『職業としての政治』を

連想しました。

 

読者に自分で考えることを要求するスタイルのこの著書の中で、著者の結論と思える

ような部分をいくつか抜粋してこの読書録を閉じようと思います。

 

『私は、リアリズムも、平和主義も、現代の国際政治における平和の条件を提示している

とは考えない。だが、国際法に基づいた武力行使が平和の条件を与えるとも考えない。

求められているのは、そのような観念のどれに頼ることもできない霧のなかで、できる

限り戦争に頼ることなく、暴力と不正を回避することである。それはいったい可能なのか。

その可能性を探ることが、平和の条件を考えることにほかならない。』

 

『私が確実に言うことができるのは、戦争に頼ることなく国際平和を維持する条件を探る

ことがもっとも重要であり、不要な戦争は絶対に避けなければいけないということだけだ。

もとよりこれは、戦争の否定ではない。必要なのは原理として軍事力を否定することでは

なく、軍事力による威嚇や武力行使に頼らなくても平和と人権保障をともに実現するため

にはどのような方法があるのかという点にあるからだ。』

 

『表題に選んだ「戦争の条件」には、戦争を避けるための条件と、それでも戦争に訴え

なければいけないときに満たすべき条件という二つの意味をこめている。暴力が国際

政治の現実であることは否定できない。暴力に頼ることなく戦争を回避することもきわめて

難しい。だが、その現実のなかには常に複数の選択が潜んでいることも見逃しては

ならない。ここで必要なのは、暴力の存在を諦めたり、まして武力行使を美化したりする

ことでもなく、また暴力と戦争の排除を訴えるなら世界も変わるという過剰な楽観に走る

ことでもない。ここで求められるのは暴力への依存を最小限に留めながら平和を実現する

方法を具体的な状況のなかで探ることであり、そこでは戦争の条件と平和の条件が裏表

のように重なりあうのである。』